この本は、1947年 ( 昭和22 ) 8月20日、桃季書院から発行されたものです。
見事です。
今年10月、早稲田の古本市で手に取り たちまち魅了された装丁で、
クタクタの和紙の手触りが心地よく、ずっと触っていたくなる質感です。
ごつごつした感じが正に堅田の落雁で、それは小布施でも京の落雁でもない、
ただただ 美しい と思います
本の備忘録のはずなのに見た目に終始するのは、内容がいまひとつ しっくりこなかったからかも知れません。
見た目に惚れて手にしたものの、んんん? という感じかな。
あらすじは、信三郎という男が、新妻道子と向った新婚旅行先で岩本という男に再会するところから始まります。
信三郎と岩本は兄弟のように育った仲で、四度も同じ女に惚れたという偶然以上の因縁を持つ恋の好敵手でした。その二人が、またもや新妻をめぐって恋の駆け引きを展開する、という話です。
【最初の恋-ひで子】
幼馴染の手島ひで子と信三郎は、接吻をするほどの仲だったが、岩本の日記を盗み読んでしまった信三郎は、岩本もひで子に恋心を寄せていることを知る。ひで子のことを諦めさせようと、岩本の目の前でラヴシインを見せ付けるが、岩本の日記には、前にも増した恋情が綴られていく。ひで子が18歳で急死すると、岩本は撹乱を起こし人事不省で倒れ、警察に保護されてしまう。正気づいた岩本が、ポカンとして警察の一室で天井を見詰めている様を見た信三郎は、自分も塾の一室で、同じように天井を見詰めていたことを思い出す。二人は手を握り合って不意に笑い出す。それは無意識の間に、お互いの無事を祝しあった夢中の挨拶だった。
【第二の恋-老漢学者の姪】
信三郎の塾に老漢学者の姪にあたる出戻り女が手伝いに来るようになった。
その女に、熱烈で真剣に恋をする信三郎だったが、完全にもてあそばれてしまい、童貞を失い、羞恥を失い、面目玉を失って、うちへ付っ返されて来た時には、もう一歩で自尊心までなくしかけていた。
女も老先生の勘気を受けて郷里に帰されたのだが、「婆ぁくった爺やい、流しの下の骨をみろ!」と囃し立てる悪狸の気持ちだろうか、小包で送ってよこしたものの中に、岩本からその女に送って恋文の束があった。
【第三の恋-おきぬ】
次に恋した相手は、煎餅屋のおきぬという娘。
娘を見初めた信三郎は、岩本が東京を留守にしているすきに、彼女を実家に女中奉公として迎える。意外にも早々に戻った岩本は、娘を見た途端「あっ」という声を揚げる。娘と岩本は小学校の同級で、仲の良い幼馴染だったのである。
二人の男が、一人の女を恋しながら三人とも一つ家のなかで、明け暮れ顔を見合わせている生活が始まった。今度こそ絶対に優勝者だと信じきっていられた信三郎ですら、決してその生活を愉快なものとは感じないのに、岩本にとっては、そんなことはまるで気もとめない様子であった。今度も、おきぬが既に信三郎の恋人でいることを感じていない筈はないのだが、不思議にも彼の恋は、一度でもその理由で阻まれたためしがない。
岩本は信三郎のことを兄のように慕い、敬愛していたのだった。しかし岩本の敬愛は敬愛で、崇拝は崇拝として、恋愛にかけては、貴様は貴様、俺は俺といった調子で、例のごとく平気で恋している様子であった。
【第四の恋-園枝】
そんなおきぬを残して、上海に赴任することになった新三郎だが、上海で支店長の娘、園枝と出会う。新三郎は、おきぬを捨て、上司の娘との縁談を選ぶ。
ところが どうだろう。遠い浪路を隔てたこの上海までも、岩本の影はさして来ていたのだった。園枝が上海に来る前年の夏、伊香保で園枝の一家と実家のものたちとが偶然同じ宿屋に泊まり合わせていた2ヶ月ほどの間に、岩本と園枝との恋が成り立っていたものらしい。
その後、ともかく園枝と結婚した信三郎だが、性格の不一致から離婚することになる。
離婚から3ヵ月ほど後、岩本と園枝は、手に手をとってアメリカへ駆け落ちしてしまう。しかし実情は、園枝がまだ女学校に通っている時分からの恋人が、領事補として赴任しているアメリカに送り届けるだけの役割に選ばれただけの彼だったのである。
【再会】
年月が経ち、岩本は日本に戻って作家になっているという噂を耳にするようになった。
彼の『烈火の下に』と題する小説は岩本自身の私小説で、信三郎は実の兄として登場する。
ひで子も、老漢学者の姪も、おきぬも、園枝も、彼の作中で主要な役を演じていた。
丁度その頃、信三郎は盲腸で入院した先の病院で、文学好きの櫻根道子という女性と懇意になる。
めでたく結婚した信三郎と道子は、新婚旅行先でばったり岩本と再会する。
二人は、岩本に誘われて一緒に嵐山に出かけるが、道子に向ける岩本の眼差しを見て、またもや不穏なものを感じてしまう信三郎だった。
道子の方でも、岩本の小説『烈火の下に』を読んでいて、信三郎に実際の事実との比較をあれこれと聞きたがったりもした後だものだから、岩本に興味津々の様子。
嵐山からの岐路、信三郎は、どうしても岩本と早く分かれてしまわなければならないという危険を感じていくのだった。
この作品は、1920年(大正9)に『国民新聞』に連載されたものだそうです。
しっくり来ない、読みにくい、と感じたのは、新聞の連載なので、一稿3ページと決められ書かれているからなのかも知れません。また連載小説は、どうしても前回の場面を思い出させてから話を進める技法を取りがちな為、通して読むともたついた印象を受けてしまいます。
NHKの朝ドラも毎日面白く見ていたのに、年末などに6話連続放送されたりすると、
毎朝15分ずつ見ていたものと印象が違って、ノッキングを受ける感じがします。
残念ながら私はそれと同じような感覚に囚われてしまいました。
里見さんは、33歳 (大正9年) の時に書いたこの作品を、還暦 (昭和22年) に再販しています。
今日読んだのが昭和22年版。
作家が自身の作品を再版する時の心境を想像したのですが、
「若い頃 脱稿した作品が、再度一冊の完本になる時の、なんというか、違和感のようなものはないのか」と思うものではないのでしょうか。
例えば、
読み返して「ここは要らん」と削りたくなったり、恥ずかしくなって、書き直したくなるようなことは。
この本を読んで、そんな作家の心理を知りたくなってしまったのです、勝手な話ですが。
作中に、話の筋とは関係のない、ちょっと意味深な記述がありました。
作家になった岩本が、同じ稼業の文学者について語り出す場面でした。
これは一体なんなのだろう。
作者自身を含めた白樺派のことを自嘲しているのかなぁと。
こんな文章です⤵
「いやどうも、みんな揃ひも揃って、呆れた怠者だ」
~中略~
「つまり緊張を欠いてる、とでも云ふのかな。何しろ遭ってみて、こいつァ出來てるな、と思ふやうな人間は実に少ないね、ふわふわッと育つて來たやうな人間ばかりだ。
~中略~
あゝ云ふ暢気な気持ちでゐる國からは、名人や上手は出るかも知れないが、決して達人は出ないね。若しこんなことを云って聞かせたら、彼らの答は、それでいゝんだ、と云ふにきまってる。作者としてよくさへあれば、人間としてはいくらぐうたらでもいゝ。つて云った考への立て方なんだから、まるで手がつけられないよ」
どうみたって、自分たちのことじゃないか知らん。
まあ、この件に関してはまた別のお話として。。。。