この本は、1949 ( 昭和24 ) 年、島木健作の死後 刊行されたものである。
『嵐のなか』が単行本になったのは《この全集が最初》と聞いて探していた。
カバーもちぎれ、中もシミだらけだが、読むのになんら問題はない。
かえって当時のことが想像できる気がしてワクワクする。
写真は『嵐のなか』を書いた1940 ( 昭和15 ) 年、37歳の島木さんの近影。
清水書院~人と作品『島木健作』の年譜 ( 昭和15年 ) には、以下の通り書かれている。
10月 「或る作家の手記」続編180枚を『改造』に発表。
11月 「嵐のなか」を発表。
12月 「人間の復活」をそれぞれ未完のまま執筆中止した。矢野健二著『島木健作』 p181 より
その後、亡くなるまでの年譜をくまなく探したが「嵐のなか」に関連する記事はない。
本文ラストに《「第一部」終わり》との記述があるので作品が未完なのかを知りたかったのだ。
島木健作は、第二部をどのように構想していたんだろう。
【あらすじ】
主人公-蔭山雄吉の家は、祖父の代に北海道に移住して来て産を成した家。蔭山家の名前はこの地方にいて知らぬものは少ない。金融業者としても成功した蔭山家は、広大な土地と漁場を持ち、多くの会社に関係していた。祖父の死後、父は東京に拠点を移したため、雄吉も東京で学生生活を送っている。雄吉は夏休みになると、祖父が住んでいた北海道の家に逗留する。今年は学生生活最後の夏で、将来の進路を決めなければいけない時期であった。
雄吉の祖父-蔭山政吉は、世間から「鬼政」と恐れられた存在だった。
雄吉の記憶に残っている祖父は、粗削りの仁王のようなたくましかった。そんな祖父の背中をまぶしく感じ憧れていたが、雄吉自身は、いまだかつて何一つ、自分のからだでものにぶつかって行ったという経験を持たなかった。そんな不甲斐なさの自覚が彼の渇望を益々病みがたいものにするのであった。
彼は、祖父との血のつながりを考えた。
祖父と自分との間に、彼の平凡な父や、いい所から嫁入って来て早く死んだ母などをおいてみた。いちじるしく弱まって来ている血の、弱まりの原因と過程はどのようなものであるかを考え悶々とした日々を送っていた。
学生生活、最後の学期がはじまって間もなくのある日の朝。
新聞を広げた雄吉の目は、社会面のある小さな記事に釘づけになった。学友の堅山が思想犯の事件で逮捕されてしまったのである。雄吉は友人たちと堅山の保釈に奔走する。蔭山家の弁護士の伝手にしたことが父親の知る所となり、伯母から小言を言われ、反発してしまう。堅山の件がひと区切りすると、親友たちは、ひとり満州へ、ひとり大阪へと旅立っていく。彼は北海道で農業問題を視察・研究する仕事につきたいと思うようになった。父は意外という顔をしたが、真正面から反対はできないでいる。農業もまた蔭山家の事業のひとつであったからである。
網走での生活は、彼に色々なことを学ばせ、活力を与えていく。
雄吉は村を中心に、この地方の農業状態を詳しく調べることにかかっていた。そのために支庁や農会や試験場に人を訪ねたりもした。人々は若い彼のために親切にいろいろ話をしてくれ、またいろいろな調査書や報告書の類もわけてくれた。それらのなかには貴重なものもあったが、それらが尊ぶべき他人の労作であればあるだけ、安直にそれを自分の仕事のなかに取り入れるということは雄吉にはできなかった。彼は、小さくても貧しくても、自分自身のものを作りたかったからである。
調べが進むにつれ、内からの表現欲は息をはずませるほどだった。彼はしばしばある箇所を書いている自分を想像した。言葉がいきいきとした形でうかびあがった。彼の頭脳にほぼ全体としてまとまって来ているものは、いわゆる論文などというものではなかった。もっと自由な、奔放な形式をとったものだった。
時は熟し、原稿を書き出す雄吉。
春以来の研究は一段落つき、清書した原稿の第一回分は、大学の研究室にいる先輩宛てに贈られた。先輩はそれを学部の機関誌である経済学雑誌に掲載してくれた。
同じ頃、協力者の青木という青年に、満州行の話が持ち上がる。満州の農地開拓が難航しており、北海道の農民を、実論農家あるいは模範農家として向こうに派遣して欲しいという話だった。満州には、雄吉の親友も渡っている。今またこの地に来てからの親しい友である青木までが渡満しようといういる。この周囲の動きに刺激され、今まで地理的にも、気持ちの上でも非常に遠いところのように思われていた満州が、雄吉にとって身近なものになってきた。
「おれも行こうかな?」
ある日、そういう考えが、深い、心の底の方からのものとして彼の胸に来た。
「行こうかな? ほんとうに」
考えの、深さ、自然さを、自分でためしてみようとするかのように、彼はそう繰り返してみた。
【感想】
今まで読んだ島木健作の作品は、
「癩」「苦悶」「転落」「盲目」「医者」「第一義の道」「金魚」「百三番」「妻の問題」「善吉」「バナナの皮」「伸びゆくもの」などの思想犯にまつわるものと、
「赤蛙」「ジガ蜂など」「黒猫」「むかで」など小動物ものと、「土地」であるが、
『嵐のなか』は、一番最初に読み感銘を受けた「土地」に近い作品だった。
島木健作は北海道の開拓農民の血をひく人間なので、地元を舞台にしたものがお手の物と思っていた。
しかし矢野健二氏は自著『島木健作』で「島木健作は故郷をうたわない作家である」と書いている。
確かに思想犯を題材にした作品が多い島木だが、『嵐のなか』や「土地」があるではないか。
本書は、新天地を満州に求めるところで終わっているが、北海道を深く知った人間でなければ描けない、故郷をきちんととらえた秀作だと私は思う。
私が一番惹かれたのは、他のどの作品よりも断トツで、人間が生き生きと描かれているところだ。
特に鬼政に関するシーンに引き込まれてしまった。
例えば。
「小さい時、爺ちゃんと風呂に入って、爺ちゃんの刺青を見つけこすってみて。
夕飯の時にそのことを持ち出してみたら、両親に酷い叱責にあってしまう。
祖父がかえってかばってくれたので、それに甘えて泣きだした。」
「近隣の子供の遊びに混ぜてもらったが、その遊びが「鬼政退治」というもので、
雄吉はいつも鬼政役で「もうしません。許してください」と言わされ。
泣いて帰った雄吉がその話をすると、笑っていた祖父の顔が急に難しくなって曇った。」
というエピソードが、祖父の様子がとても伝わってきて印象的だった。
本文で好きなのは、この部分。
八十年を生きた祖父は、雄吉の前でいろいろに変貌する。複雑多面なその相をあらわす。しかし今の雄吉が、祖父を思うのは、鐵の意志、鐵の肉体の人としての彼である。そのたたかいがどのやうなものであれ、生涯をたたかい通して来た人としての彼である。
魚が水をはなれては生き得ぬように、勤労を離れては生き得なかった人間としての彼である。なにごとにまれ、ものに徹底する精神、苛烈なまでに鍛えあげられた意志、冒険をおそれぬこころを雄吉は欲した。
端正よりは乱雑を、中庸よりは行きすぎを、洗練よりは野蛮を、平和よりはあらしを、安楽よりは艱難を、幸福よりは不幸を、勝利よりは敗北を、―― ひと言にしていえば、すべての悲観的なものに向かって、彼の心は燃えていた。~中略~彼は決して、恥をかくことをおそれるものではなかった。清潔とは恥をかかぬということではなかった。敢えて事をなして、事が志に反し、泥んこにまみれることをおそれるものではなかった。身の程知らずに人民の中へ入って恥をかいたものより、身の程知って人民の中へ入らずに恥をかかずにすんだものをえらいなどと、彼は思うものではなかった。
創元社刊『嵐のなか』p.47~48より
「恥をかくことを恐れない、泥んこになること恐れない」
なんと恰好よい、潔いことだろう。
しびれた。座右の銘にしようかしら。
雄吉はそんな風に祖父を深く慕っていた。親父は世間体ばかり気にする二代目気質で、
そういう自分も、祖父の良いところをひとつも貰っていない、と思い落ち込んで生きてきた。そんな雄吉は、友達を通して色々な出来事にぶつかり、北海道で農民たちと触れ合って、次第に《何が大事なのか》を見つけていく。
最終章、満州行きを決めたとき、彼は自分自身と向き合う。
そうして最後の文章がいい。
「勝つことでなく、敗れることをしようと彼は心に思い定めていた。」
ウェブサイトで「嵐のなか」にまつわる写真を見つけた。
日経新聞の記事で、三村幸作さんという方が撮られた写真である。
やっぱりプロは凄いなあ。
もうひとつ♪
以前『土地』の話をした時に、有島一郎を連想したと書きましたが、
本作でハッキリと有島さんのことが記述されていました。
ちょっと嬉しかったので追記しておきます。
彼は自分が農場などを持っている家の長男であるという事実についてまたも考えて来たのであった。今までにも何度も考えたり、考えるのをやめたりして来たことだった。自分の出生、身分、階級などについて考えるということには、雄吉たちよりも、一時代も二時代も前の人々はずいぶん頭を悩ましたらしかった。そのために自殺したものさえあった。
わけても高名な小説家であり、おなじ北海道の地主でもあったAについては、その頃やっと小学校へ上がりかけたぐらいの子供だった雄吉は、ずっと後になってから書いたものを通していろいろと想像してみるだけである。彼は自分の出生と生活にまつわる虚偽から脱れる道について思いつめてついに自ら死んだ。彼はほかには道がないと思ったのだった。
~中略~しかし自分は何をすべきなのであろう? 農場などを持っている家ということでは小説家のAは彼に共通していた。Aは彼の土地から自分自身を開放した。農場の小作人たちに土地を与えた。土地はただでくれてやった。
それ以来もう二十年近い年月がたつが、もらった小作人たちはどうしているか? 今の彼らは安楽であるか? 祖父がはじめて開墾にはいった土地が、その近くだということもあって、雄吉はA農場のその後のことは比較的よく知っている。学生瀬時代には訪ねて行って、もとに小作人の人々に逢ったこともある。
約八十戸の小作人たちは、地主からは解放されたが、彼らだけの力ではやって行けぬのであった。それで彼らは利用組合をつくり、組合として銀行から金を借りたのだが、今ではその借金に縛られ、金利に追われて生きているのである。温良な、人道主義的な地主よりははるかに苛酷なものが今では彼らを縛っている。Aの友人の博士などが、土地を与えたあとのことについていろいろ心配する役目にあたっていたのだが、博士が凡庸であろうと非凡であろうと、そんなことにはどうやらかかわらぬことらしいのであった。
「しかしAさんの立派なご意志というものは、無にしたくはないのです。」苦労の皺を額に刻ませて最後にそう言った組合長の言葉は今も雄吉の耳に残っている。
Aは、単に与えるというだけでなく、与えたのちの彼らのことについてももっと考えてやるべきだった、というのであろうか? しかし友人の博士に委託することを彼としては最善の道と思ったであろう。彼は自分の手から離れることで、土地を持つというだけで百姓たちがより幸福になれると信じていたのであろうか? 農業経済の学問を学んだことのある彼がそんなに素朴であったとは思われぬ。彼はもっと余裕のない気持ちであったであろう。ひと事などを考えてはおれなかったであろう。人を開放するよりは自分が会報されたかったであろう。『嵐のなか』 p.306より
ううむ。
深い話だ。