Marco 知の鍵

ああ、ビブリア古書堂みたいな場所で一日中 本を読んでいたい。

朝倉虎治郎 翁

 

今年の春、旧朝倉家住宅 を見学して、当主の人となりを知りたくなりました。

あの家は財力さえあれば築けるものではない、杉の間は、柾目ひとつひとつを吟味されていたし、

棚板の彫刻には、良いものを沢山見てきた人が選ぶ “ 遊び心のある趣味の良さ ” を、

感じてしまったワケです。

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広間の案内板には「朝倉家の家系図」や「朝倉虎治郎さんの写真」が、掲示されていて。。。

フムフム、読めば読むほど、更に詳しく知りたくなる。

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当主の虎治郎さんは東京府議会長をされていたというし、地元の名士というなら文献の

ひとつやふたつあるのではないかなと思います。

 

あったあった。

バッチリの資料!

ヒルサイドテラス物語~朝倉家と代官山のまちづくり』前田礼著

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本によれば、代官山のヒルサイドテラスを作ったのは、朝倉家でした。

昔から「素敵な街並み」だと憧れていたヒルサイドテラスと、あの旧朝倉家住宅には、

深い繋がりがあることに驚きつつ、読み進みます。

 

 

【当主 朝倉虎治郎】

虎治郎氏は、

「1871 ( 明治4 )、愛知県碧南の富商杉浦太一の次男として生まれ、小学校を終える間もなく上京し、

深川-木場の材木店で働くが、その働きぶりは同業者・界隈において有名で、

15歳で店を任されるほどだった」

 

この頃から虎治郎さんは、凛然と頭角をあらわしていたんですね。

材木商に勤めた経験が、朝倉住宅を作る時の木材選びにも生かされたようです。


その頃、朝倉家では、2人の息子を疫病で亡くしていました。

当主徳次郎は跡取り問題に悩み、次女タキの婿として虎治郎を迎えます。

朝倉家の養子となった虎治郎は、家業の精米業を、木場の問屋筋に注文を取るなど顧客を広げ、

数年を得ずに、個人営業の白米商としては東京随一の米屋にします。

 

面白いのはその後の縁組。

実は、虎治郎の末の弟・杉浦八郎も、朝倉家の末娘スエの婿養子になっています。

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この八郎が、後に虎治郎を支えて大きな働きをするんですが、まずは順を追っていきます。


明治37年、虎治郎 (34歳) は、養父 (徳次郎) の後を継いで、渋谷町会議員に推挙される。

養子になってまだ 7年、家業に専心努力する只中のことで、本人も養父も望んだことではなかったが、

家族協議の末、村会議員に就任することになりました。

虎治郎は元々名誉心が淡泊で、町会議員も「政治家になる」という認識は薄く、

自治の仕事に関わる」ものと受け止めていたようです。

 

大正4年、虎治郎が東京府会議員に選出されると、朝倉家の家業は八郎が担うようになります。

杉浦兄弟 (虎治郎・八郎) は、両輪となって朝倉家を盛り立てていきました。

 

【虎治郎さんとごみ問題】

虎治郎は、地域住民からとても慕われていたようです。

朝倉家に陳情に訪れる人は、虎治郎が東京府議会議員を引退した後までずっと続いたそうです。

現当主である孫の徳道さんは、朝倉家の杉の間・角の杉の間で陳情の人々に対応する祖父をよく見たそうです。

虎治郎は、地域の為に尽力をおしまず、ごみ問題・道路整備などに取り組みます。

代官山ヒルサイドテラスのあの広い道幅も、元はといえば朝倉家の土地であり「発展する土地には、広い道が不可欠」といって拡張したんだそうです。まだ車も少ない当時としては、びっくりするくらい広い道にしたものです。

 

渋谷町議では「そんなに道ばっかり作ってたら、家を建てる場所がなくなる」という意見も出たそうです。


ごみ問題では、自ら所有する土地をごみ焼却場建設用地として提供しています。

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大正末から昭和初期にかけての東京は、関東大震災による人口移動で、

東京中、ごみとし尿の処理で大変でした。

各町は競ってごみ処理問題に取り組みましたが、焼却場の誘致となるとどこの住民も反対します。


なかでも大きな紛争になったのが、渋谷町でした。

渋谷町が隣接する目黒町に町営のごみ焼却場を作ったものだから、もう大変。


その中心人物が、虎治郎でした。

虎治郎はごみ焼却場の建設用地として、朝倉家が所有する土地を提供したのですが、

その土地が渋谷町ではなく目黒町だったので、話がややこしくなった。

しかも焼却場を作ることを内緒にして、話を進めていたことが問題視されたんです。

 

何故、ごみ焼却場を作ることを伏せていたかというと、

1918年に、目黒町宿山の駒場練兵場近くに焼却場建設を計画した時、申請を受けた警視庁がこの件を目黒村会に諮ったところ住民が反対し、不許可になりまして。。。

その不許可に対して、虎治郎さんは次のように抗議したそうです。

 

地元への諮問するは反対を示唆するに等しく、

斯くして塵芥問題の解決は永久に不可能である。

 

溝入茂氏 論文
『大正末から昭和初期にかけての東京府渋谷町と目黒町のごみ戦争』から孫引き
底本は、有田肇著『朝倉虎治郎翁事績概要』東京朝報社 p.57

 


その後も、1922年、1924年と向山に計画された施設建設が、2回とも付近住民の反対にあって頓挫。

いよいよ切羽詰まって選定したのが朝倉家が所有していた別所の土地だったわけです。

代官山は西渋谷台地の東端に位置していて、高台は住宅地向きだけれども、

目黒川方向には大きく谷が落ち込む地形になっています。

 

意識としては、代官山から目黒川に続く地域に広く展開する自己所有の土地の低地部分をごみ処理施設に提供したという感覚ではないか。

廃棄物資源循環学会 ごみ文化研究会の溝入茂先生は、氏の論文『大正末から昭和初期にかけての東京府渋谷町と目黒町のごみ戦争』に、そう書いておられます。

同感同感、私もそう思います。

 「あっちに計画しても反対、こっちもダメ。じゃあ、自分の土地しかないじゃん」って、

話じゃないのかしらね。

いくら低地であっても風向きによっては、土地を提供した虎治郎さんだって臭い思いをする可能性があるわけで、それでも建てようとしてくれたんじゃないですか。

 

旧朝倉家住宅の広間にあった虎治郎さんの写真を見て始まった調べものでしたが、

迷惑施設に対する人間のエゴについても、深く考えさせられました。

 

 

【 好奇心の連鎖 】

ふと出かけた徘徊で、偶然見つけた『旧朝倉家住宅』

その建物から、建主 虎治郎さんに興味が広がり、

そこから、渋谷町のごみ騒動を知り、

ごみについての深い研究をされている溝入茂先生の魅力的な論文にたどりつきました。


ううむ・・・

果てしなく広がっていく好奇心の落ち着きどころは どこなんだ。

取りあえず、次の課題は、溝入先生なのは間違いないが。。。

それはまた、別のお話。

 

 

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