『老年』は、生前の単行本にはならなかったが、芥川龍之介の「処女作」にあたる作品です。

【あらすじ のようなもの】
物語は、橋場の玉川軒という料理屋で行われた
小川の旦那や中洲の大将など多くの人が集まるところから始まります。
座敷は離れの十五畳。上座には師匠の
末座にいるのは「房さん」という、この店の御隠居。
ご隠居の房さんは、若い頃 放蕩と遊芸に身をやつし、親ゆずりの玄米問屋の身上をすってしまったごくつぶし。今は僅な縁つづきから、この料理屋に引きとられ、楽隠居の身の上になっているという人物です。
旦那や大将が房さんの武勇伝を聞きたがっても、彼は禿げ頭をなでながら小さな体を一層小さくするばかり。順講が一段落し御膳が出る時分になると、房さんは「どうぞ、ごゆるり」と、挨拶をして席をはずします。
やがて小川の旦那の「景清」、大将の「鉢の木」の出番が近づくと、2人は用足しを口実にそっと抜け出すが「しらふじゃやってられない」「冷酒でもひっかけよう」ということだった。
廊下に出た2人に耳に聞こえてきたのは、女を口説いているような、なまめいた房さんの声。
「年をとったって、隅へはおけませんや」旦那らは、細めにあいた障子の内を覗き込む。
2人とも、白粉のにおいが浮かんでいたのである。
だが当の房さんは、禿げ頭を 柔らかな猫の毛に触れんばかりに近づけて、
ひとり猫を相手に、なまめいた言葉を誰にいうともなく繰り返していた。
【珠玉のラスト】
なんともペーソスあふれる話じゃないですか。
あらすじに《武勇伝》という言葉を使いましたが、男性には《やんちゃな同性に憧れる》一面があるのではないでしょうか。同性の年配者には、いつまでも若く、色っぽく、やんちゃであって欲しいといった願望です。
そういった願望は、女性より男性の方がはるかに強い気がします。
話の中でも、
あの話でも伺おうじゃありませんか。」
などと、話かけても乗ってこない。房さんが席をはずすと、
「ああも変わるものかね。辻番の老爺のようになっちゃあ、房さんもおしまいだ。」
と残念がります。
房さんが女を口説くようなつやめいた声を出しているのを聞いて、大将と旦那は心ときめいたのではないでしょうか。ところが、それは猫を相手の繰言だった。
複雑な心境の2人を描くラストの2行が、光ります。
そして、長い廊下をしのび足で、又座敷へ引きかえした。
雪はやむけしきもない…
【芥川さんについて】
『大川の水』を読んだ時も感じましたが、
芥川龍之介という人は、20代で何故こんな老獪な文章が書けたのでしょうか。
座敷の様子を語るにも、
謡いの様子を語るのにつけても、
など。華道から歌舞音曲に到るまで、成熟した知識が、随所に散りばめられています。
一中節については、「芥川家は、家族で一中節の稽古をしていて、龍之介も上手だった」と紹介しているサイトもありました。出典元・真偽の程は不明です。しかし彼が、豊かな江戸芸能に親しむ環境で育ったことは確かでしょうし、なにより彼には、その知識を吸収する力が、人並み以上に備わっていたからこそ、このような作品が書けたのではないでしょうか。
【芥川作品をめぐる…】
芥川作品ともなれば、数多くの論文や考察本が存在するようで、簡単にネットでさらっただけでも沢山の研究論文があります。
研究者の間では、
「離れの座敷で行われる一中節の順講を描く際、《硝子戸と障子とで二重にしめきった》としていることが、近代化した下界から隔絶された江戸情緒の世界である象徴になっている」
みたいなことが、これまでの研究でほぼ一致した見解なのだそうです。
房さんが座敷を離れる理由にもちゃんと意味があり、
「下町の宴には、若さの所有者のみに参加資格が与えられていることを知っていた」という考察や
「孤独に追憶の中の女を相手にすることで、青春を回復しようとする老人の侘しい生の姿である」
「老いの孤独に対する同情や憐憫をも含んだ愛惜の情」
などと、複雑に難しく展開されていました。
また独創的な自論を展開した結果、出来上がってしまった矛盾点を解決すべく出した結論として、
「一生を放蕩と遊芸に費やした人の失われた青春と、消えゆく江戸文化とが、
うまく重なっていないのは、作家に未熟な部分があったからだ」
と結んでいる先生もいらっしゃいました。
沢山の研究対象になっている本作について、単純な私は
「もっと直感的な気分で、この小説は書かれたんじゃないのかしら」
と、思ってしまいました。
房さんが席を立つのも「やんややんやと賑わしいから」じゃ駄目なのかな。
料理屋側の人間なのだから、食事をする客の前から席を立つのは、自然の成り行きで、それが《江戸情緒からの隔絶とか、老人の憐憫の情とかなんとか》言われると、ううむと頭がショートしそうになるのです。
そんなこんな、見解・研究論文を拝読していて思い出したのが、同じ巻の全集に乗っていた芥川さんの序文です。
「バルタザアル」の序と題して書かれた芥川さんの文章の末尾に、こんな一節がありました。
時代は遠慮なく推移するものである。だから恐らくは自分の小説の如きも、活字にさえ容易にならない時が遅かれ早かれ来るのに相違ない。が、自分はその時もやはり現在のように苦笑いを洩らして、一切を雲煙の如く見ようと思う。その外に自分は時代に対する礼儀を心得ていないからである。
生温いとも、不徹底とも、或いは又煮え切らないとも、評するものは勝手に評するが好い。自分は唯その前にも、同じ苦笑の挨拶を与えようと思っているものである。