Marco 知の鍵

ああ、ビブリア古書堂みたいな場所で一日中 本を読んでいたい。

芥川龍之介 『大川の水』

 

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まるで老齢作家の懐古作品のようにも思えますが、このエッセーを書いた時、彼はまだ、文壇にデビューする前の若者でした。

(※ 大正三年(1914年)4月1日発行の雑誌『心の花』第十八巻第四号に「柳川隆之介」の
署名で掲載されたが、本文末に(一九一二、一、)とあることから。)
班女(はんじょ)といい、業平(なりひら)という、武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。十六夜(いざよい)清心(せいしん)が身をなげた時にも、源之丞(げんのじょう)が鳥追姿(とりおいすがた)のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋(いかけや)松五郎が蝙蝠(こうもり)の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船(ちょきぶね)の船腹にものういささやきをくり返していたのである。

幼少年期に、このような芝居に親しむ環境にあったことも、ワタシにとって驚くべきことでした。
大叔父に河竹黙阿弥とも交流のあった人物がいたことも、何かの縁かも知れません。
そうした素養に、異常な程の多読家だったことも加わり、研ぎ澄まされた感受性も併せ持つ青年だったからこそ、齢二十にして、このような文章が生み出せたのかも知れません。
また、彼の早世が、生き急いだ故にあったのではないかと感じてしまいました。

話はワタクシごとに転じますが。
江戸っ子の父(父の父は神田、父の母は浅草)も、よく下町の風景を懐かしんでいました。
私自身は世田谷で育ち、下町に知己を得ませんが、或る夏、父と隅田川を歩く機会があり、懐かしそうに川を見ている父の姿から、私までもがノスタルジックな気分に陥ったことが思い出されます。代理的懐古心理が生じたかも知れません。
隅田川の流れは、ワタシが育った多摩川の “ のびのびした自然の川 ” と全く違った印象でした。
独特の匂いと存在感があり、今までに感じたことのない威圧感がありました。

今回『大川の水』を通して、自然が人間形成に与える影響に興味を抱き、久しぶりに大川端を散策したくなりましたが、その折は、百本杭も訪ねてみたいと思います。

【memo】
大川の地理を知る上で参考にさせていただいたのが、久保田 淳先生著の『隅田川の文学』(岩波書店)です。
特に、巻頭の隅田川周辺概念図 中流地域・下流地域の二枚の地図は、『大川の水』を読み進めるにあたり、位置関係がわかって、非常に助かりました。


※ 地図を書き写したものを添付しました。コチラをクリックしてください。

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 隅田川中流概略図               隅田川下流概略図

【その他の参考文献】
下記は『大川の水』を朗読された秀作です。

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