Marco 知の鍵

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『老舗の履歴書Ⅰ~元黒門町の空也』 著:樋口修吉

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 夏目漱石の『吾輩は猫である』の舞台となる苦沙弥(くしゃみ)先生の家で、迷亭や寒月などの来客があったとき茶菓子として出されるのは空也餅である。

 その空也餅を、正月に椎茸で食べて前歯を二本折った寒月が食べると、欠けた前歯のふちにくっつくところから、“空也餅引掛所”と表現されている。

 さて、空也餅で知られる空也の創業の地は、上野山下の池之端、昔の町名だと元黒門町三十番地 ( 現・台東区上野二丁目 ) だ。

 町名の由来は、山門の寛永寺の門前にあったからだといわれる。

 屋号を空也としたのは、初代が関東空也衆の一人だったからだ。関東空也衆とは踊り念仏の流れを汲み、向島の百花園などに集まって踊りながら念仏を唱えるグループだったらしいが、実際は旦那衆が念仏を唱えるのを口実に集まって、その後で遊びを主目的にしていたのではないかと、現当主の家では言い伝えられている。

 初代は、江戸城に出入りする日本橋堀留町の畳屋だったが、道楽が過ぎて倒産してしまう。

 そのとき関東空也衆の仲間が、日本橋栄太楼にいた職人を付けて和菓子屋を開く段取りをつけてくれた。明治十七年 ( 1884 ) のことである。

 店の看板商品は空也最中で、踊念仏の拍子をとるとき叩く瓢箪の形を模したものであるが、これを考案したのは初代だ。初代は道楽者だから顔も広く、歌舞伎役者や落語家の円朝などと親交があった。

 あるとき九代目市川團十郎の家に行くと、長火鉢の抽斗(ひきだし)から古くなった最中を取り出し、金網にのせて(あぶ)り、ちょっと焦がしてから勧めてくれた。

 食べてみると、焦げたもち米の皮が香ばしくて、サクサクした歯ざわりもいい。そこで初代は、皮を焦がした空也最中を売り出して好評を博した。

 ところが店が繁昌するようになっても、初代には子供がいなかったので、番頭格の山口彦助が後を継ぐことになる。初代に関しては、古市という姓で、阿行(あこう)という俳号を持っていたことと、店を彦助に譲ったのち品川に隠居して精神修行の会をひらき、悠々自適の晩年を送ったことしか伝わっていない。また彦助について菩提寺の谷中の天王寺 ( 天台宗 ) の過去帳を調べても、生年が明治五年だとしかわからない。

 もっとも、高浜虚子の主宰する『ホトトギス』で『吾輩は猫である』の連載がはじまったのは明治三十八年だから、空也は創業後わずか二十数年にして東都の名物になったようだし、その後の推移については、彦助の長男彦一郎の半生を追えば明らかになる。

 

ベル・エポックのころの巴里で遊学する

 明治三十二年 ( 1899 ) に元黒門町の店奥の住いで生まれた彦一郎は、学齢に達すると慶應義塾の幼稚舎に通う。当時の幼稚舎は現在地の天王寺橋ではなく、三田に近い札の辻にあった。慶應義塾を出た和田達郎が、明治七年に札の辻の自宅で開いた和田塾の後身で、明治二十五年に慶應義塾と合併して幼稚舎となったのである。

 低学年のころの彦一郎は札の辻まで人力車で通ったが、上級生になると明治三十六年に開通した上野駅と品川駅を結ぶ東京電車鉄道 ( 後の市電 ) を利用した ( 明治三十九年に東京電車、東京市街、東京電気の三鉄道が合併して東京鉄道を創立して、その後、東京市会の決議により市営化が決まり、明治四十四年に市電と称される )。

 慶應普通部の二年となった十二歳のとき彦一郎は、父親に連れられて、池之端にある江戸千家の家元に入門する ( ちなみに上野動物園の裏門前にある江戸千家不白流家元宅の茶席の一円庵は、関東大震災や戦火を免れて現存し、昭和三十七年に東京都の重要文化財に指定された ) 。

一円庵

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江戸千家「一円庵」と森鴎外住居跡 - 千住閑人帳

 

 茶道に親しむだけでなく、遊ぶことにも忙しかった彦一郎は、慶應普通部を経て予科に進んだとき落第した。三つ年下の弟、六助も慶應に通っていて、このままいけば弟と同級になりかねないと悩んだ彦一郎は、父親に外国留学を申し出る。

 父親の彦助がすぐには許してくれなかったので、彦一郎は跡継ぎの長男よりも馬のほうが大切なのかと抗議した。

 彦助の代になっても空也は繁昌をつづけていた。明治三十五年には、上野界隈有数の老舗として知られた上野山下の松源楼 ( 文化年間に休み茶屋として開業し、天保時代に料理屋となり、明治以後は入谷にも支店を開く ) が閉業したのに対して、空也の主人彦助は、明治三十九年に不忍池畔で開催された上野競馬会で、ロビンフッドという持ち馬を走らせるほどの余裕があった。

 彦一郎の講義は、月に飼育料が百円近くもかかる馬など売り払って、馬を養うつもりで長男を海外留学に出してくれというものであった。

 結局、彦助が長男の説得を受け入れて、洋菓子を研究する目的でフランスへ行くことを認めてくれたのは大正十年で、彦一郎が二十一歳のときだ。

 日本郵船の欧州航路でマルセイユを経てパリに到着した彦一郎は、洋菓子の研究をしたし、ポルトンブリューという料理学校にも通った。ヴィオラを習ったこともあるし、洋裁学校でワンピースを作ったりもした。しかし、どれも長続きはしなかった。最後までつづいたのは美術品の蒐集だったが、これは現地での交友に基づいている。

 パリについてまもなく彦一郎は、アカデミー・ランソンに通う高畠達四郎と知り合う。

 四歳年上の高畠は、同じ東京の生まれで、慶応大学理財科を中退して、白馬会の本郷洋画研究所に通ってから、彦一郎と同じ時期にパリに来たことがわかったので親しくなり、毎日のように顔を合わせるようになる。

 ほどなく彦一郎は、高畠の影響を受けて絵を描いたが、初めての油絵がサロン・ドートンヌであっさり落選してからは描くのを止めて、蒐集する側にまわる。

 ところが、モンパルナスでドガ贋物(にせもの)をつかまされて後悔し、それからは高畠と一緒にオークションへ通って鑑識眼を養った。目が肥えてくると、いいと思った絵は財布の底をはたいて買った。当時は日本円にも値打ちがあり、現在の市場価格に比べれば絵画は安くて、なんとか買うことができた。

 同じころにパリに留学した仏文学者の辰野隆(たつのゆたか)は、『味なもの』 ( 読売新聞社社会部編、現代思潮社刊 ) で、グッチャンこと彦一郎の思い出を、次のように記している。

----- グッチャンは当時からすでに絵に(くわ)しく、一角の鑑賞批評家であった。画家高畠達四郎君・・・グッチャンと対比して我等はタッチャンと呼んでいたが・・・タッチャンとグッチャンは、いつも手を携えて、画商の店から店をひやかしながら、徐々に目を養っていた。或日二人はドガの踊娘のパステルを三百フランで掘り出して来て僕に誇示した。次の日、二人は昨日のドガはどう見直してみてもにせ物だといって、しきりに憤慨していた。その翌日、二人はいかさま画商に偽ドガを叩き返して三百フランを取り戻して来たといってひどく御機嫌だった。グッチャンとタッチャンの巴里生活は如何にも楽しそうだった。当時は、マチスピカソもヴラウマンもルオーも若くて元気いっぱいだった。-------

 

 そのうち福島繁太郎と慶子夫妻がロンドンからパリに移ってきた。高畠と福島繁太郎とが付属中学の同窓だったから、高畠を通じて彦一郎も夫妻と昵懇(じっこん)になる。当時のパリは、エコール・ド・パリの華やかなころで、福島夫妻はピカソマチス、ルオーなどと交友をはじめて、彦一郎の会がを見る目はますます肥えていく。

 絵画や彫刻を蒐集する楽しさを覚えて、安い下宿に移った彦一郎は、生活を切りつめ、ルノアールマチスヴラマンクドガデュフィの小品やマイヨールの浮彫などを少しずつ買い集めた。

 狭い下宿の部屋に絵画や彫刻を置けないので、彦一郎は次々と日本へ送ったが、送り状に添えた父親宛の手紙には「あまり大した作品ではないけれど、記念に買ったりもらったりした物だから、僕が帰るまで預かって下さい」とだけ書き添えた。

 もし正直に値打ち物だと書くと、そんなに立派な物が買えるほど暮らしが楽なのかと、送金を減額される恐れがあったからだが、その手紙が仇となる。

 関東大震災を彦一郎は新聞で知った。パリの新聞には、日本が海に沈んで富士山の頂上だけが浮かび、そこで芸者とおぼしき女性が腰巻き一枚で震えている絵が出ていた。

 三か月後に父親から手紙が届いた。

 空也の店は大震災の二日後に焼けたが、みな元気で、焼け跡に建てたバラックで商いをしているという知らせのあとに、お前が送って寄こした絵や彫刻は持ち出そうと思えば、出せないこともなかったが、「あまり大した作品ではない」ということなので後まわしにしたら、すべて焼けてしまったと書いてあった。

 やがて四年余りの滞仏生活を終えた彦一郎は、ニューヨークを経由してシアトルからの船旅で帰国する。

 

上野山下から銀座へ

 帰国後まもない昭和三年 ( 1928 ) に彦助が享年五十六で他界し、家督を継いだ彦一郎は、数寄屋大工の木村清兵衛に依頼して木造二階建ての店舗をつくり、さらに不忍池に面した店の裏手には、当時として珍しい瓦屋根のある鉄筋コンクリート造りでありながら洋館風の母屋を建てた。

 昭和十年に刊行された写真集『建築の東京』は関東大震災の建築物を収めたもので、空也の洋館風の建物の写真も掲載されて、菓子舗空也、竣工年・昭和三年、設計者・志村太七、所在地・台東区上野二丁目十四番地という説明もある。

 この『建築の東京』に収録された多くの建築物は、後年、松葉一清によって在否が確認されて、昭和六十三年に『帝都復興せり!』が平凡社から出て、さらに平成十年に朝日文庫化された。著者の松葉一清は、空也の建物について “ 和風の反り屋根と奇妙な壁面仕上げが興味深い ” と付記している。

 この建物の一部は現存する。京成上野駅池之端口を出ると、老舗の天ぷら屋「山下」のビルがあり、その五、六軒先の「トウカイ」というレストランの裏手に、小ぶりな鐘楼を思わせる建物が二階の瓦屋根をのぞかせていて、いまでも異彩を放っている。

 

中略 

 

つづく