Marco 知の鍵

メインBlogから本に関するものをピックアップ。ああビブリアみたいな場所で一日中本読んでいたい。

よその宿六たち~空也さん 著:福島慶子 オリジナル

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『日曜日の食卓にて』16ページ 「よその宿六さん~ 空也さん」

 ※ 旧字は読みやすいように変更しました。

 

 高畠 ( 達四郎 ) さんと山口さんは性質はまるで違うのに気が合うというのでしょうか、滞仏時代は常に行動を共にしていました。

2人共まだ30にもならず独身同士ですから、夏など旅行に行く時はいつも一緒でしたし、巴里でも毎日のように往来していました。

2人はある夏のこと、フォンテンブローに家を借りたので訪ねて行くと、森を背に控えた村はずれのなかなかよい所でしたが、扉を叩くと奇妙な恰好をした2人が飛び出して来て、中へ入ったらいかん、と言うのです。辺りには居様な臭気が立ちこめていて、2人の言うのには、「今日で2日目の南京退治をやっているのだ、道理で家賃が安いと思ったらこの始末だ、中に入らず早く帰れ」と言って追返された事があります。

道理で全部の窓がしまっているので不思議だと思ったのですが、扉を開けた時の硫黄の匂いといったら、目も口も開けられるどころではありませんでした。

よくあの中で2人は生きていたものと今でも不思議に思い出します。

後で聞いてみますと、この家は南京虫の為に借り手がなく、住んでみて初めてそれと判り、這う這うの体で数日後に逃げ出したという事です。

こういう事はいつも2人の口喧嘩の因を作りますが、口喧嘩をしながらも2人は決して離れることがなかったのは、腐れ縁みたいなものでした。

例えば2人は旅行して未知の町へ来ると、先ず高畠さんの方は、地図や案内記を頼りに土地の様子を確かめてから、写生の場所を探すという調子なのに、山口さんの方は着いた途端に探検に出かけ、行方不明になってしまうというあんばいだからです。

山口さんの説によりますと、その土地の概念をつかむには、まず手あたり次第に電車かバスに乗り、ずっと終点まで行って同じ所へ同じバスで戻って来る、そして次に別のバスで同じ事を繰り返す、この勉強を数回繰り返せば町の地理なんかすぐに呑込める、と言うのです。 ( 事実この方法は非常に有効です ) 

 

 この2人がドイツへ弥次喜多旅行をした時のことです。

ある場末のサーカスに行くと、見物人の中から希望者を募って場内を馬で一周させる番組があり、血気の若者たちが楽しそうに荒馬をこなして見せました。少しぐらいなら乗馬に自信のある山口さんは、これを見ると急に自分もやってみたく

なり、よせばいいのに名乗りをあげたのはようのですが、これには勿論一回の乗り賃をとられます。ドイツに来たばかりの彼は細かい金勘定もまだ慣れていないので、どうせ釣り銭を貰うからと1枚の大きな札を渡しました。するとこれはしたり、何と勘違いしたのか相手の馬方はサッとばかり札を取り上げてしまい、何やらわめきながら他の騎手たちを全部馬場から追い出してしまいました。

そして直ちに特別景気のよいラッパ音楽が鳴り始め、馬方が思い切り馬の尻をひっぱたくと、馬は山口さんを乗せたまま気も狂ったかの如く駆け出し、ブレーキをかけても止まるどころではありません。

ここで落馬したら日本国民の恥ばかりか、命まで台無しだと思うと生きた心地もなく、青くなって馬の鬣にしがみついていました。そしてやっとひと回りした時、薄情な馬方はサービスのつもりか、更にもういっぺん馬の尻をいやという程ぶんなぐりました。そこで哀れな山口さんはもはや恥も外聞もなく、半泣きとなって念仏を唱えながら馬のなすがままもう一回空中を飛び廻らねばならなかったと申します。

 

 話は別になりますが、騎士道の伝統を持つ西洋では荒馬をこなすのが紳士の「乗馬術」となっていて、訓練の行き届いた温和しい馬に乗るなど婦人子供のする事、だから貴族の仲間では、客をもてなす礼儀として大切なお客にはなるべく荒馬をあてがうのが相手に敬意を表した事になるのだそうです。先年ある身分の高い方が外国に行かれた時、乗馬がご趣味とふれ込んであった為、相手方の接待員、が特に荒い馬を用意し、この方はそれをこなしきれず、ちょっと具合が悪かった、という噂をききましたがありそうな事だと思います。

 

 思うにこのドイツの馬方は山口さんかの差し出した札ビラを見て、これは馬場を買い切るほどの偉物と思ったか、或いは東洋の大名が現れたとでも勘違いしたのかもしれません。兎に角山口さんにとっては大災難だったし、見ていた高畠さんも生きた心地はなく、やっと解放されて半死半生の山口さんに向かって「もうこれ限りオマエと歩くのは絶対にイヤだ」と怒りに怒ったそうです。しかし、山口さんの方は自分が悪いことをしたとは思わない、「人が九死に一生を得たのに、喜ぶどころか怒るとは酷いや」と、後々までも言い合っておりました。

 

 山口さんは何の勉強をしていたか、と申しますと、家が代々菓子屋ですから、西洋菓子の研究が本来の留学目的だったのです。しかし人間はなまじ少しの批判力がありますと、かえって道に迷うものらしいのです。山口さんがフランスの菓子を一通り研究してみると、日本の西洋菓子屋は割に上手に、しかも安い値段でフランス菓子を作っている。自分がやるとすればあの値段では、満足出来る程のものも作れないし、さりとて満足の行くほど材料をかければ値段が高くなり、高ければ買えない事は決まっている、と、散々考えた挙句、菓子作りの勉強はピッタリと止めてしまいました。その代わり自分はフランス料理で行こうと決心し、ある料理学校へ通い始めました。ところが有名にも関わらず、この学校は素人相手の花嫁学校で、少し念のいった料理を習うには、いちいち特別料金を取るといったやり方をするのですっかり失望、これも半年で止めてしまいました。

そこでつくづく考えるには、これから日本は婦人も追々洋装するであろう、日本には婦人服の裁縫師がいないから、巴里でしっかり腕を磨けば将来必ず役に立つと思いつき、同じやるなら一番難しいスーツ仕立ての勉強をしようと、これまは専門の学校へ通い始めました。今度は本職になる目的の人たちばかりですから仕事も難しいが材料もなかなかかかります。始めのうちは知り合いの女の子のワンピース等を無代で作ってやり、重宝がられてもいましたが、段々程度が高くなってくると、材料費の高いスーツ、外套になります。すると女の子たちの方も警戒してなかなか頼む者も続いて出てきません。仕方がないので遂には我が家の家政婦のスーツを作る次第となりました。ところがこの家政婦はせむしでしたから、山口さん程度の新米見習師では背中が納まりません。とんたものに手を出したと言って彼はしきりに後悔しましたが、もともと美人コンクールで一等をとるような体に合わせて作るのはワケのない事です。一流の仕立屋が高くても繁盛する理由は、どんなデブでもやせっぽちでも、胴長でも猪首でも、すらりと恰好よくみせる仕立ての技術にあるのですから、せむしの1人や2人持て余すようでは到底一人前にはなれぬ、と私たち夫婦はしきりと励ましました。それもそうだ、と彼は一心不乱になり、一か月もせむしのスーツと取り組み、その甲斐あってき、後ろ見頃が浮き上がるほかは全く申し分のないスーツを仕上げました。家政婦の方は無代でしかも数度の仮縫いを重ね、これ程念の入った仕事をして貰ったのですから、感謝感激の至りです。「すみませんが、出来ましたら外套もお願いしたいのですが・・・」と申し出ますと、山口さんはすっかり恐れをなし、かつくさりにくさって、到底裁縫師になる夢も綺麗さっぱりとうっちゃってしまったのです。高畠さの影響もあって、山口さんは一方に於いて絵なども描いておりましたけれど、生まれて初めて描いた油絵がサロン・ドートンヌであっさり落選してから絵の方も気乗り薄です。

 

 当時は外国為替の送金も自由にきいたので、山口さんはご両親から充分のものを仕送られていましたが、実をいうとそれ程位には金はかかりません。日本の家族は何もわからないので要求されるだけは送ってよこしたので、受け取る方は鯖を読み、必要以上の金額をねだっては、感心な事に、生活は倹約して美術品を買いあさっていたのです。当時こそ美術品は高いと思ったけれど、今日の市価からみれば物の数ではありません。こうして彼はマイヨールの浮彫り、小品  ( なが ) ルノアールマチスヴラマンクドガその他一流作家の作品を集めたのですが、この為自分自身の暮らしは締めてかかれましたから、住んでいる所も狭い下宿です。絵を買っても置く場所もなく、移転も度々なので、買い集めたものは次々と日本へ送りました。しかしご両親にはこれらの買い物をほんの「つまらぬ物」の様に話しておいた様です。というのももし本当の値打ちを打ち明ければ、そんな立派な物が買える程暮らしが楽なら、以後送金を減額すると言い出されるかも知れぬと恐れたからです。

それで手紙にはいつも「下らない物だけれど、記念に買った ( 或いは貰った ) 物だから僕が帰る迄預かって下さい」とアッサリ説明しておく程度にしました。山口さんのお父さんは江戸っ子の通人とはいえ、フランスの油絵の事など少しも知りません。息子の言葉を真に受けて、到着した荷物は中身も見ずに物置に放り込んで置いた。そこへ関東の大震災です。上野の空也 ( 山口さんの家 ) も場所柄が悪く、さっそく焼けてしまったのでしたが、この時家人は息子の買った禄でもない土産物より、彼らにとってもっと大切な物を持って逃げ出し、折角の宝物は物置に打ち捨てられてしまったから、当然の結果としてルノアールマチスも灰に帰してしまいました。この事を後で知った山口さんの残念がる事、傍目も気の毒な程でしたが、親を欺いた罰は覿面(てきめん)でした。後で誰かが、焼け跡の灰の中から熱の為にひびの入ったマイヨールの浮彫りだけは掘り出して来たそうですが、山口さんは後年これを修理して売りました。既にこの時でも美術品の世界市場の価値はすっかり上がっておりましたので、今更焼けた他の作品が惜しまれますが、今日あの絵が残っていたら・・・と思うと、他人事乍ら残念でなりません。

 

 山口さんはこんな性分でしたから色々なものに興味を持ち、一時は競争自動車をふっ飛ばす事に夢中になった時代もありました。当時ブガチというスポーツ用自動車が非常に流行し、性能も極めて優秀な代わり値段もまた馬鹿々々しく高かったのを、彼は思いついたら諦めきれず、販売会社と散々交渉を重ねた挙句やっとの事でシャッシーだけを手に入れ、機械さえよければ外はどうでもよい、といった調子で、キャロッスリの代わりに唯のの籐椅子をつくりつけ、これでそこら中を駆け回っておりました。車が手に入り運転も覚えると旅行したくなるのが人情です。それも1人は詰まらぬから誰か同行者はいないものかと思うのですが、ボディーがこの体たらくの為か、山口さんの運転技術に信用がない為か、喜んで同行を申し出る者もなく、結局高畠さんが行動を共にいる事になりました。前の座席で山口さんが運転し、後の座席に高畠さんが座るのですが、山口さんが無茶にスピードを出すので、後では絵道具やカンバスを抑え乍ら、籐椅子にしがみついていなければなりません。こんな格好で国道を疾風の如く飛んでいく姿は、爽快なスポーツというより、むしろ奇怪な光景だったに違いなく、偶々ある山道にさしかかりますと、いきなり羊飼いの大きな犬が飛び出て来て、盛んに吠えかかりました。咄嗟の事ではあり而も片方は崖ですから、山口さんの慌てたのは無理もありません。犬は車輪に絡みつきそうな猛烈な攻撃を続けますが、ひき殺しては後味も悪い上に、飼い主が現れてうるさい事になる、何とか追い払わねばと思ったトタン除け損ね、アッという間に土手に乗り上げてしまいました。その為犬は無事でしたが、高畠さんの方は空を切って道路面に放り出されてしまいました。これで満足したか、犬はさも目的を達したかの様に悠々と引き上げて行きましたが、高畠さんの方はその後当分腰の痛みが取れず、随分山口さんを恨んでいました。

 

 当時の仲間は皆若くみな呑気でしたけれど、山口さんなどは最も青春を満喫した人でしょう。ある年スペインへ一人で廻った時の事ですが、マドリッドに着いたのが夜更けになり、行き当たりばったりの宿で泊まる事にしたのはよいが、夕食を済ますといつもの調子で直ぐ宿を飛び出しました。例によって街の調査探検のつもりでフラフラと歩いている中に、到頭方向を失って迷子になってしまった。しかしスペイン語は出来ないから人にきく事も出来ない。その上悪い事に、ついうったりして自分の泊まっているホテルの名前も、その所在する町名番地も覚えておかなかった。こうなると山中で遭難したのと全く変わりありません。流石の山口さんも進退窮まりましたが、そこが若さの強さとでも言いましょうか、足に任せて一晩じゅう歩いているうちには何とかなるだろうと、一人闇の中を歩き、歩き、そして歩き続けました。しかし南欧とはいえ、午前2時ともなれば流石に寒くなり、心細くなって、いよいよ警察に飛び込むより外にテはないと思った時、土地の風習でしょうか、鉄棒の先に輪のついた杖をシャリーンシャリーンと音立て乍ら、地回りの者が火の用心に巡回しているのに行き合ったそうです。そこでこの男の後について歩けば、少なくとも暗闇で賊に襲われる心配もあるまいと、重い足をひきずって、トボトボ後からついて歩きまわりました。変な東洋人が或る晩突如マドリッドに飛び込んで来て、その晩から火の用心に巡るとは不思議な事ですが、神は自ら助くる者を助くと言いますか、山口さんの努力の賜物か、疲労困憊に徹し気が遠くなりかけた時、遂に見覚えのある入り口から明かりの洩れているホテルを探し当てたという事です。後から考えてみると、夜の事でよく判らなかったけれど、余り遠くへ行った訳ではないらしく、どうやら同じ町内を、何遍もうろつき廻っていた形跡があります。ですから山口さんは、マドリッドの一部の区域の地理なら下手な土地者より詳しく、どんな横丁でも通り抜ける事が出来るが、但し之は夜に限り、同じ場所でも昼間ならさっぱり駄目だという話です。

 

 とにかくする中、山口さんもいよいよ日本へ引き上げる時期が到来しました。アメリカを廻って日本へ帰る旅費は、ご両親から前もって十分仕送られて来たのですが、それでもいよいよフランスを去るとなれば、あれも欲しい、これも買いたいという事になりますから、お金はいくらあっても足りません。出発前に殆ど使ってしまったらしく、最後に例のブガチを売りとばすと、やっと大西洋を渡りました。アメリカへ着くとすべての様子はフランスと違って、物価は高いし勝手はわからず、懐は軽いし、流石の彼も少しばかり心細かったようです。かつて巴里の仲間で現在ニューヨークに住み着いている友達たちは、喜んで歓迎の宴を張ってくれるし、ドライブや観劇にも誘ってくれるのでしたが、相手がこれほど行き届いた親切を示してくれると、かえって借金を申し込みたくてもなかなか口に出せるものではありません。こうしてニューヨークでぐずぐずしていれば小遣いもかかり、ますます危険だと悟った彼は、一気に西へ向かって逃げ出しました。シャトルに着いた時は流石に行き詰まり、船の出る迄泊まっていた宿屋の支払いすら差し迫ってきました。そこで折角洋行記念に買ったスイスの金時計や、カフスボタン、シガレットケース、万年筆といった金目の物を売り飛ばし、三日間食事をしないで、フラフラの体で公園の噴水の水を飲んで命をつないだ、という事です。太平洋横断の切符は前々から用意してありましたので、この方は心配ありません。船にさえ乗れば、寝床も食事も切符代に含まれていますから、ジッとしていても横浜に着けるはずです。下船する時のチップ、洗濯代、バーの支払い ( 煙草その他の飲料費 ) は別勘定ですが、これは横浜に迎えに来てくれるはずのお父さんを当てにしよう、と勝手な胸算用を立て、やっと恥をかかずにアメリカを去り、無事に乗り込めたのは大出来だったが、この時懐中には20セントしか残っていなかったと申します。

 

 なにしろこんな具合で船に乗り込んだのですから、いくら豪華船でも面白いことはありません。切符こそ一等船客ですけれど、煙草ものめず、麻雀やブリッジにも参加出来ず、オレンジジュース一杯飲めない、来る日も来る日も心楽しからず、ただぼんやり欄干から下のデッキを眺めていました。そこは三等船客の遊び場で、毎日支那人の労働者達が何やら賭博をしているのが見られ、こんなものを見物するのが幾らか退屈を紛らわしたからです。しかし、もともとモンテカルロには大分ご奉公した彼の事ですから、ジーッと観察しておりますと、この賭博はただ、運を試すだけの簡単なやり方で、 ( チーコーという遊びであるとは後で判ったのですが ) 場に現金を置いてどうとかすると、勝った者の所へ他の掛け金が全部集まる、一回の勝負が20秒もかからず、次々とあっちこっちに金が廻っているのだそうです。よし、運を天に任せて最後の20セントを賭けてみよう、運よく自分の所へ当たればそれを元手に賭け続け、或いは小遣いぐらい出来るかも知れない、万一やり損なっても20セントの損害ではないか、と散々考えた末、決心が定まると、つかつかと仲間に割入って鷹揚に20セントを置きました。するととたんにサッ!  と掻き取られ、呆っ!  という間に萬事が終わりました。シマッタ! とその場を逃げ出して来たのはよいず、如何に何でも余りに呆気なく、我ながら情けないほど馬鹿々々しい事でした。「なまじ20セント持っていたからへんな気持ちを起こしたけれど、一文無しとなれば却って気が楽だ」とは考えるものの、一方ではまた馬鹿なことをした、貧すれば鈍するとはこの事かと、自分の行為が悔やまれぬ事もなく、あの時の気持ちは車に轢き殺されたみたいなものだったと ( その経験もないくせに ) 言っておりました。それから以後は座禅を組んだ気持ちで横浜まで辿り着いたのですが、有難い事には、ご両親が多分こんな事になるのだろうと、お金を用意して出迎えに来て下さったので、誰にも弱い腹をみすかされる事なく、新帰朝者然と下船する事が出来たのです。親というものは有難いもの、また若さがあれば何事も苦にならないもの、とはこんな事を言うのでしょう。

 

 さて、ずつと後年になってから山口さんは空也の店と家督を相続し、一家の主、子供の父となり、一方に於いては江戸千家宗匠となりました。すると不思議にも彼の人物もまた、用心深い、実直な地味な、頑固なオヤジと成り変わってしまったのです。

 

 空也と言えば名代の江戸菓子の老舗で、明治から先頃の敗戦迄は、上野の池之端に凝った店構えで、江戸風の特色のある茶菓子を商い、また空也もなか、空也草紙、今では時たましか作りませんが「吾輩は猫である」に出て来る空也餅などでも広く知られていました。

 

 山口さんのお祖父さんにあたる人は変わった人で、昔、「空也念仏」という一種の宗教に凝り、向島の百花園などに集まっては踊り乍ら念仏を唱えるグループを作っていたということです。今でいえば差し当たり踊る宗教の元祖みたいなものだったのでしょうが、当時はそれ程共鳴者もなかったとみえ、新興宗教としては盛り上がらなかったようです。二代目のお父さんもなかなかのディレッタントで、最後の江戸っ子、三代目が前述の山口彦一郎さんです。親子三代それぞれ変わった気質が現れて続きましたが、変わらぬのはこの家は代々気位が高く、自分の店の菓子を食べたい人間は買いに来るのが当然、此方から頭を下げて注文を取って廻ったり、配達するなんか真っ平ごめん、とは言わないけれど、そうとしか受け取れないような営業方針で今までやって来ました。ですから夏目先生でも足を運んでわざわざ空也餅を買いに行かれたに違いありません。今は時代も変わり、池之端の店も戦災は被るし、上野は与太者と浮浪者の屯する地域となりましたので、空也の菓子が食べたいような風流人は全く足を向けませんから、流石頑固なこの店も時代の風潮には抗しきれぬとみえて、戦後は銀座に進出してまいりました。

 

 けれども頑固なことは相変わらずで、近代的照明器具では気に入らず、周囲が波型にビラビラ上下した昔の電灯傘を探し廻り、とうとう見当たらぬと解ると、高い金を費やしてまで特別に(あつら)えて明治調のものを作らせる、といったヘンな力み方をしたり、並木通りのネオンの光に埋もれ乍ら午後ともなれば店を閉め、燈を消してしまう、といった塩梅ですから、「多少に不拘御届申上候」( ←多少に関わらずお届け申し上げ候) などとは絶対に言わない。お客の方が大急ぎで売る方が退屈している時なら、近所に限り配達もしてくれますけれど、普通はわざわざ買いに出向かなければ、あの何とも言われぬ上品な和菓子は手に入らないのです。殊に生菓子の類は逸品揃いですのに朝の十時頃ではまだ出来上がらず、午後の四時過ぎではもう売り切れですから、確実に欲しい時は前日電話で予約する以外にテはありません。こう申しますと空也という店はイヤに威張っているみたいですが、実は全く正反対で、山口さんらしいもっともな理由があるのです。

 

 彼に言わせますと、人間は金を貯めるばかりが能ではない。食べて暮らして行けるだけ働いたら後は楽しむ事を考えるべきだ。金を貯めようとあくせく働いて健康をに(こわ)し病気をしたり死んでしまう奴こそ馬鹿の見本ではないか。腹八分目に物を食べ、腹八分目に働いて、一生の八分通りを幸福に生きれば理想的だ。お菓子を作るにも薄利多売や競争や宣伝は菓子の味を下落させる。本当に良い菓子を作るなら、どんな事情に対しても決して材料の質を落とさず変えず、心をこめて親切に作ることだ、てんやわんやで多勢の者が、広い仕事場で働いたり、不慣れな者が入混じって手を出すのでは、埃も立つし味も狂い、どうかすると細かい注意を欠くことにもなる。しかし一番大切なのは、その日に作ったものはその日に食べて貰うこと、菓子は時間が経てば味も落ち、宵越しを売ったり食べたりするのは言語道断、満一翌日のものを食べられて、空也の菓子はこんなものか、と言われたらお終いだから絶対に余分の数は作らない、というわけで、彼の仕事場は小さく職人も最小限で、一人の注意が隅々まで届くように仕組まれてあります。ですから一日に沢山の菓子が出来るはずもないし、また何時食べても味に狂いがありません。とは申すものの人間のやる事ですから、どうかすると時には心にそまぬ出来栄となることもあり、こんな時こそ気の毒です。自分の気に入らぬ物にはお金は頂けないし、人様にも見られたくない、家の者共に食べされてしまえば始末はつくのだが、菓子屋の家族というものは、自分の家の菓子には食欲を感じないものです。めったに無い事ですが(たま)にこんなことが起こったり、またはどうかして幾らかの売れ残りが出来た場合、山口さんは大そう恥ずかしそうにうちの画廊に包んで来て食べてくれないかと差し出します。勿論少々形が狂ったり色がよく上がらなかったりする程度のものですから味に変化はありません。私たちは大喜びで(たちま)ちペロッと平らげ、明日もまたやり損ないを出してくれと頼みます。しかし玄人はなかなかやり損ないませんからめったに好運には巡り遭いません。