Marco 知の鍵

メインBlogから本に関するものをピックアップ。ああビブリアみたいな場所で一日中本読んでいたい。

昭和マイラヴ 著:酒井美意子

酒井美意子さんの著書を乱読中。

今回は「昭和マイラヴ」というエッセー。

加賀藩主 前田本家第16代当主・前田利為侯爵の長女として生まれ、

1歳から4歳まで父の赴任先ロンドンで過ごし、

帰国後、学習院昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王と同級・学友となる。

卒業後は、17~18歳を外務省政務秘書室勤務。

18歳で雅楽頭系酒井家宗家22代当主・酒井忠元の妻となり、

戦後は、マナー・着物評論などで活躍。ハクビ総合学院長などを務める。

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彼女は、まぎれもないお姫様である。

筋がね入りの姫君とは、こういう人のことを言うのだろう。

多くの著書には、周囲の華族も多く登場する。

物おじせずに言いたいことをいう態度は、尊大とか、生意気とか、高慢ちきとか、

そんな印象を与えかねないが、それらの形容詞は彼女には当てはまらないと私は思う。

何故なら、尊大・生意気・高慢ちきは、身分不相応の者に対してのことだから。

 

気位高くでいいのです 正真正銘のおひーさまなのですから

美意子さんのエッセーには、反感も買うおそれも誤解を招くおそれもはらんでいる。

昔の暮らし、宝石、社交界、別荘や本宅の様子、お父上、お母上のこと。

ただ、美意子さんの信念はぶれないからいい。

高い地位にいる人間としての苦労も努力もしてきた人だから、言い切るだけのことはある、

と私は思うのである。

 

「前田家の人びと」の章には、こう書かれている。

躾も独特なものがあった。ヨーロッパに長らく在任していた父は、日本古来の封建主義を嫌い、万事に合理的な西欧風をとり入れた。

ことに「日本の女は、態度が卑屈だから安っぽくみえる。もっと外人と対等に堂々とふるまわなくてはいけない」と、絶えず私どもに注意を与えた。

 

礼儀作法は枝葉にこどわることはなかったが、ただ使用人に対するふるまいには厳しかった

「使われる身になって思いやりを忘れるな」「こどもが親と同じ調子で使用人に対してはならぬ」「使用人になめられないよう、裏表を見抜くようになれ」としつけられ、戒めに反すると、「もういっぺんやり直しなさい」と、ただちに叱られたものである。

 

当時、我が家には百三十六人もの使用人がおり、それぞれ私に献身的に仕えてくれる者、妹や弟に味方する者と、いくつもの派に分かれていたが、その渦中にまきこまれないよう、高いところにあって、人が人を使うむずかしさを、幼い時分から身をもって学ばざるを得なかった

酒井美意子著『昭和マイラヴ』p.248より

 

美意子さんは、ノブレス・オブリージュについても触れている。

かつて白洲次郎もイギリス留学で叩きこまれたという精神。

日本語でいうなら《持てる者の義務》といったところか。

ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。この言葉こそ未来永劫不滅である。日本語にはこの種の言葉はそもそも存在しなかったが、「身分高き者は義務を負う」という意味のフランス語で、ヨーロッパの王族・貴族精神の根幹を成す言葉だ。

 

 たとえば昔の貴族は戦争があれば先陣を切って戦場に向かった。ナイチンゲールは貴族の娘だが、野戦病院で献身的に働いた。

今でもそうだ。イギリスがアルゼンチンと戦ったとき、エリザベス女王の三番目の王子が最も危険な戦闘機に乗ることになった。世論は王子を心配し、配置換えを提唱した。が、女王陛下は、「彼は当然行くべきです」と忽然として言い放った。王子は女王が一番可愛がっておられる末っ子である。

酒井美意子著『昭和マイラヴ』p.200より

 

ノブレス・オブリージュは、日本でも明治・大正・昭和初期まで機能していた。

男性皇族と華族の長男は、軍人になることを強制的に義務づけられており、

女性皇族、華族は、看護に従事していたのだ。

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日露戦争時の華族の看護風景

上の写真は、後に梨本宮妃になられた鍋島伊都子 ( 写真右 ) が、篤志看護婦人会員として、病院で活動している写真。

 

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篤志看護婦人会

篤志看護婦人会は、日本赤十字社内にあり、皇族・華族の夫人たちが中心になって活動した団体である。右端が伊都子さん。左端が母の栄子さん。 

 

 

日本の華族について

日本で産まれた華族制度は《大名華族》《公家華族》《新華族》の三つから成り立っていた。

維新で寄せ合わされた3つの華族は、風習や立場も異なり、双方相入れない要素もあったようである。 

 

 

それについて触れた記述もあった。

最も凄いとうなった 彼女の結婚観が語られた章だった。

 かつて日本始まって以来の敗戦時には、生活再建のため、イチかバチかの決断を迫られたことも幾度かあったが、“私の一生を決めた決断”ともなると、やはり夫を選定したことであったと思う。

 

 戦前の社会では、女はお定まりのコースを生きることになっていた。

ことに私が育った華族の世界では、生まれたときからベルトコンベアーに乗せられ、まずは女子学習院に入学する。

十六、七歳ともなると、親や周囲が決めた人と婚約する。

大学の集団教育は避け、数人の家庭教師を迎えて個人教授を受け、ニ十歳ごろに嫁入りをする、というパターンが厳然としてあった。

 

 人生の重大事はすべて男が決定し、女が決めることは日々の献立ぐらいのものだった。これらの「他に依って生き、他の光によって輝く」 ( 平塚らいてう ) 女たちを見るにつけ、自分の人生ぐらいは自分で計画をたて、自主的に生きなくては生きる意味がないのではないか、と私は不思議だった

 

 十五の秋、そろそろ夫を決めなきゃと考えた。

ボヤボヤしていたら決められてしまう

もともと私は、“手鍋下げても” などという悲壮な大恋愛にはまったく向かないタチなのだ。恋愛はゲームにすぎないのだから、ゲームごときで一生を棒にふるわけにはいかない

 

 さて、私にとって理想の夫とは、私がしたいともくろんでいる小説やエッセイの執筆、学校経営、サロンの主宰、舞台の演出といったもろもろの “文化活動” に賛同し、援助を惜しまない男性、ということに尽きる

 そして生活を共にするパートナーなのだから、思いやりとユーモアのセンスに溢れ、愉快でデリケートな人間でなければならない。社交性のない気難しがり屋などはマッピラだ。野心家で選挙に出馬したがるのも困る。世話がやけ、内助の功をあてにされる職業は避けなければ・・・。

 

 その点、海軍士官か外見もステキだし、常に女は載せない軍艦に乗っていて留守がちだから最適かもしれない。美男すぎるのも考えもの。本人はしっかりしていても、浮気な女どもの争奪戦に巻き込まれるなんて最低だ。

 

 もう一つ、動かせない条件がある。

それは夫は華族の跡取り息子でなければならないのだ。

当時、華族同士の結婚が不文律で、皇族や華族の結婚は宮内省 (庁) の許可を必要とした。もし、他の階層の人と縁組するときは、実家と縁を切って、然るべき家に養女にいくことになっていた。

だが、なにもそんな大さわぎをしてまで結婚したいような人物がいるとも思えないし、第一、私は実家とは絶対に縁を切りたくないのだから、考えるまでもない。

 

 華族華族でも公家華族はダメ。平安朝以来、蚊帳を着て寝たという伝統があるけど、あまりにも質素すぎる

華族もよろしくない明治維新の活躍により出世した下級武士の系統だから、美意識に乏しくセンスがピンとこない

 

 こうしてあれこれ思案して消していったら、大名華族の長男に落ち着いた。

現実には五男や八男にもよさそうな青年がいるが、長男以外は財産をわずかばかり分与されて、分家を立てるか、他家へ養子にいく運命にあり、江戸時代ほどではないにしても、二男以下はいわば家来と大差ない。

それに長男は、明治以来軍人になることを強制的に義務づけられている。私は理屈抜きに軍人が好きでもあった。

 

 そこで私は「華族画報」を広げた。これは「皇族画報」と同じく、時々発行され、関係者に配布されていたリストである。そこには伯爵以上の名家の男女が網羅され、サラブレッドの出走馬なみに “明け十代” の若駒たちが紹介されている。

 

 その中から大名華族の長男をピックアップして、レポート用紙に名前を書き出したら十一人になった。みな顔見知りの青年たちである。学習院の女子部と男子部は親しい交流があり、華族会館のパーティーやパレス乗馬クラブなどでも会っていたから、彼らのことはかなりよくわかっていた。

 

 この十一人の青年の性格と家庭環境と財産を、画報に基づいて採点し、ソロバンをはじいた。すると最高点になったのが従兄の酒井忠元であった

 

彼は元姫路城主で、徳川幕府の四天王として政権の座にあった普代大名の二十七代目にあたり、伯爵家の一人息子。彼の母は私の母の姉である。

彼は私の書く雑文を丹念に読んでは絶賛し、いまに本を出せ、応援してあげようと激励してくれた。ほかの男たちはそれを言っていない。

彼こそはわが真の理解者、得難い協力者、しかも、ユーモアは抜群だし、高等科のラグビー部のキャプテンで「旦那」と呼ばれ頼られている。

伯父伯母も私を可愛がってくれるし、厄介な小姑は一匹もいない。よし、彼と結婚しようと決心した。

 

 すぐさま一計をめぐらすと、彼はたちまちアミにかかりプロボーズしてきた ( どんなハカリゴトであったか記憶にさだかではありません ) 。宮内省も難なくOKを出し、翌年の一月に婚約、三年後の十九の春に海軍少尉の彼と結婚したのでありました。

酒井美意子著『昭和マイラヴ』p.84より

 

当時の女性、特に華族の女の人生はベルトコンベアーに乗せられたもののようで、

自分自身で考え行動するなどということは無縁であったろう。

彼女は常に特異な存在だった。

であるからこそ、こうして何冊もの本を発行し、注目を集め続けた存在なのだと思う。 

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上のポートレートは、駒場・前田邸の大客室で撮られたものと思われる。

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右奥のピアノの上の額縁と、壁紙が一致しています。